現代の、特に全国にチェーン展開された量産品を前にすると、時折どうしようもない退屈さを覚えることがある。
ミリ単位で均一化され、効率と利益の最大化だけを目的に生み出された製品たち。
「シンプル」という聞こえはいいが、そこには作り手の体温はなく、ただ「消費されること」だけを宿命づけられた虚無感がある。
企業の思惑が透けて見えるようなモノたちには、どうにも心が動かない。
しかし、ここで一つの矛盾に突き当たる。
私が日頃から愛好し、手元に置いている古い道具やヴィンテージ品の多くも、かつては紛れもなく当時の「量産品」であったという事実。
何十年も前の海外の工場で壁に掛けられていた掛け時計も、名もなき労働者たちが雑に扱っていたスチールのワークランプも、当時は決して特別なものではなかった。
大量に生産され、大量に消費された日用品の最たるものである。
では、なぜ現代の量産品には冷たさを感じ、かつての量産品には惹かれるのか。
それは、彼らが「時間」と「人」という容赦のないフルイにかけられ、生き残ってきたからに他ならない。
何十年という歳月の中で、多くの同ロット品が壊れ、捨てられ、姿を消していった。
その中で、偶然か必然か、様々な因果が重なり合い、傷を負いながらも淘汰を免れた個体だけが、今ここにある。
その傷跡や錆、日焼けの跡こそが、かつての量産品が時間を経て「一点モノ」へと昇華した証。
だからといって、「古いものなら何でもいい」という極端な懐古主義でもない。
現在の味気ない量産品であっても、数十年後には時代を生き抜いたヴィンテージとして、誰かの心を打つ可能性を秘めている。
結局のところ、モノ自体の価値は時間が決める。
年齢を重ね、数多のモノと出会い、別れてきた。
古物やインテリアの世界を覗き込み、時には自らの手で分解や修理を施しながら、モノの構造や背景を考察していく中で、今の自分にとって重要なのは、それが「いつ作られたか」という年代のタグではないことに気づく。
現行品であれ、古いものであれ、目の前にあるモノとどう向き合うか。
単なる「消耗品」として消費し尽くして捨てるのか。
それとも、傷がつくことを許容し、共に時間を重ねていく「相棒」として長く付き合えるポテンシャルがあるか。
これからもただそれだけを見極めながらモノとの出会いを楽しみたいと思う。

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